平城遷都1300年祭 その3【大仏様】

<2010年11月06日>
大仏様と正倉院宝物

【消えた正倉院宝物、1250年ぶりに確認】

 "東大寺の大仏様の足元から明治期に出土し、国宝に指定された太刀2振りが、約1250年にわたって行方が分からなかった正倉院宝物の太刀だったことが分かった。"というニュースが前日に流れた。


大仏様
 「陽寳劔」「陰寳劔」は東大寺を創建した聖武天皇(701〜756)の遺愛品で、妻の光明皇后(701〜760)が大仏に献納した後に正倉院から持ち出され、行方不明となっていた。

 こうした「除物」と呼ばれる品は武具や箱など七つあるが、存在が確認されたのは初めて。




大仏様の膝元
 大刀は1907(明治40)年、大仏が座る蓮華座と須弥壇の境目付近の深さ約45センチの土中から見つかった。

 鉄製で、大仏殿(金堂)の永続を願って埋められた「鎮壇具」と判断され、近くに埋まっていた別の大刀などと一緒に1930年に国宝に指定された。




東大寺大仏殿
 東大寺は今年度から2年がかりで、金堂鎮壇具の保存修理を研究所に依頼。

 X線調査で、長さ98.3センチの大刀(鉄製)の刀身の根元近くに1辺約1.5センチの楷書で「陽劔」、97.5センチの大刀(同)には「陰劔」と象眼が施されていたことが分かった。
 
 「陽寳劔」「陰寳劔」は756年に光明皇后が大仏に献納した品々の目録「国家珍宝帳」の刀剣類のトップに記されている。
 そこに書かれた長さや構造が今回の大刀と一致した。


 光明皇后1250年御遠忌法要の年に、自分が奈良にいる。
 奈良は修学旅行以来であるが、年老いた今は感慨もひとしおである。
 



ならまち格子の家
 歴史ある奈良は文化財の宝庫であり、訪れたいところはまだまだあるが短い旅ではそうもいかない。

 そこで、最後に「ならまち」へ行ってみることにした。
 ならまちは、奈良市の市制施行以前の旧市街地の呼称で、特に元興寺の旧境内を中心とした一帯を指して「奈良町(ならまち)」と呼ばれている。

 今も残る江戸や明治期の町家が、当時の面影を伝えている。
 そもそも平城京の外京としての起源を持ち、社寺の町から商業への町へと、時代背景の中で盛衰を繰り返してきた。

 古くからの社寺はもちろん、創業百年を超える老舗商店、続々とオープンする個性的なショップやギャラリーなど、新旧が共に生き、様々な一面を見せている。

 写真は奈良町の伝統的な町家を再現した「ならまち格子の家」。 


 今回の平城京遷都1300年祭の旅は、甥っ子の目出度いご縁のお陰だ。
 "若い二人に幸多かれ。"




 

 
 

コメントする